先日、東洋経済オンラインにちょっと気になる記事が掲載されていたので、まずはこの記事を拝見頂きたい。
『跋扈する「道徳自警団」が、日本を滅亡させる~他人の不道徳が我慢できない人たち~』古谷 経衡
出典:東洋ビジネスオンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/213773
古谷 経衡氏といえば、筆者の一回り下の世代の、文筆家であり、インターネットとネット保守、若者論、社会、政治、サブカルチャーなど幅広いテーマで執筆評論活動を行っている気鋭の論客の一人である。
今、社会を見渡した際に、筆者がどうも、スッキリしない、居心地の悪さを感じることに関して古谷氏は見事にそれを“表現”している。
今、ある意味、こうした道徳自警団と呼ばれる人たちの顔色を窺いながら、息を潜めて、日々を過ごす…。という人たちも意外と多いのではないか?と筆者も思う。最近、ご縁のある、企業経営者の方々の情報発信が、こうした人々からのバッシングを恐れてか、ある種、自身の人間性を表出することをリスクと捉え、当たらず、触らずの内容の投稿を続けているケースが非常に多くなっている…。
本来、人の物事の捉え方、精神、モラル、思想、信条というものは、自由であり、それを侵害する権利など、何人(なんびと)も持つものではない。
しかしながら、今、社会において蔓延するこの、「道徳自警団」とされる、人々の発信が、大きな影響を及ぼし、本来、“赦されてもいい事”が、バッシングの対象となり、血祭リにあげられてしまうという、非常に、恐ろしい状況が顕著になったように思う。
社会に変革を齎し、更なる、成長、進化を遂げる際に必要なのが、創造的破壊であるとすれば、それは、マジョリティが奇妙に思えること、ちょっと違和感を憶えること、おかしなことを仕出かすことから始まる…。
しかしながら、混沌と閉塞が続く今の時代、“マジョリティが奇妙に思えること”、“ちょっと違和感を憶えること”、“おかしなことを仕出かすこと”に極めて不寛容で、それに対する不快が大きな声として響き渡る…。
現在、訳あって、戦前、戦中の社会大衆に関して論考を進めている筆者なのだが、まさに時計の針が逆戻りしたようなある種の気味悪さを感じ得ないのである。
創造的破壊は一体何から起こるのか?これに関して、とある出版社の筆者の担当編集者と議論を交わしたことがあったのだが、今、世の中、マーケティング偏重主義に陥っていて、爆発力のある“コンテンツ”が生まれにくい世情にあるということが話題となった。
つまり、企業活動においても、あまりに顧客やステークホルダーの顔色ばかりを窺い過ぎて、世の中に変革を齎すような、価値の提供が困難になっていることが窺い知れるというわけである。
勿論、マーケティングコンサルを生業の一つとする筆者であるから、マーケティングを否定するわけにも行かないのだが、確かに担当編集者の指摘通り、今、様々な分野におけるコンテンツが、スケール感もなく、大人しいものにとどまっている理由は、こうしたマーケティング偏重主義に陥った結果といえるのかも知れない…。
昔、この国の大衆は、サイレントマジョリティーと称されていたが、今は、物静かな人々こそがマイノリティとなり、多くの人が大なり、小なり、ネットというメディアを活用し、“物言うマジョリティ”として闊歩している。
けれど、その物言うマジョリティの主張、意見、考えが、本当に正しいモノなのか?信義にあったものなのか?というと、これまた別問題である。
起業家、経営者というのは、いつの局面においても、その意思や価値観を問われることに迫られる…。
その際に、所謂、ここでいう「道徳自警団」や、「もの言うマジョリティ」の主張なるものばかりを気にしていたら、結局は自らが掲げる理念との矛盾、齟齬が生まれるということにもなりかねない。
勿論、理念なるものも、時代の変化と共に柔軟に変化させることも、大切ではあるが、“変えようもない精神”まで変えて、顧客やステークホルダーに対応することが、果たして、正しいことのだろうか?
むしろ、本心をひた隠しにし、愛想笑いをうかべ、顧客やステークホルダーの言いなりなることの方が“嘘”なのではないか?…。
今、お茶の間から昭和の頑固おやじ、寺内貫太郎のような存在が、絶滅危惧種となる中、あえてそれを貫くことが、一つの新しい価値へと転じる可能性もある。
情報受容過多の時代に、誤った“忖度”や、顔色を窺うことに対する過剰な反応が、かえって、“自由な精神”を蝕み、“自分らしく生きる”ことを遮る。
そういったことに惑わされないということも必要だが、自分も何か不平、不満のガス抜きとして、「道徳自警団」や、「もの言うマジョリティ」のいちみに加わらないことも大事ではないかと、つくづく考えるものである…。
作家、村上龍氏がとあるエッセイで、「時代が洗練し、成熟すれば、変革への意思が薄れ、それがかえって停滞を生む」ということを書かれている。
閉塞の時代を突破する変革には果敢に挑戦し、冒険に挑むしかない。
例え、それが、多くの人には、“奇妙に思えること”、“ちょっと違和感を憶えること”、“おかしなことを仕出かすこと”であったとしても…。
ではないだろうか?